月雪に華と散る
競争をしよう。
この石段を一気に駆け上って、寺の門まで競うんだ。
負けた方が、勝った方の言う事を何でも一つ叶えるっていう決まりだぞ。
私が勝ったら、また武術を教えてもらうんだからな。
なぁ、天狗――…。
***
夕暮れを過ぎた空のもと、山も湖も、薄墨色の世界に飲み込まれようとしている。
京の都の人間臭さすら、ひたひたと忍び寄る夜闇と冬の寒さは、静寂のなかに閉じ込めんとしているかようだった。
「……こりゃあ、ひと降り来るのぅ」
松の枝に腰掛け、上を仰いだ白い天狗は、ひしめく灰色の雲を見て呟いた。
剥き出しの頬や指先に吹きつけてくる風が、体の奥底に染み込んでくるかのような冷たさを帯びている。
もうじき、雪が降り始めるのだ。
「また都見物か。毎度毎度、よく飽きないものだな、白鴉」
大きな羽音とともに、背後に現れた黒い影を、白い天狗――白鴉はぐるりと振り返って見遣った。
「おう、玄鷺。こんな処で逢うとは、奇遇だのぅ」
白鴉は、気味の良いほど快活な笑い声を友に向ける。
対する玄鷺は、目を細めあきれ返った様子を見せる。だが、その表情に反して、白鴉の居座る枝に、彼も足を降ろした。
「こんなところも何も、この船岡山は俺の根城なんだがな。都を見たくば、お前のところからでも、不便はないだろうに」
ため息交じりに玄鷺が言うと、白鴉はまた豪快に笑う。
「そう言うな、玄鷺。蔵馬山より船岡山のほうが、全体がよく見えるんじゃい」
「ふん。まぁいいか」
「おうよ」
唐土にならい、日本でも、都は碁盤目状になるように道を敷き屋敷を建てた。
その形状を、船岡山の頂上から測ったのだ。
ここから都がよく見えるのは、道理だった。
天狗たちは、そのまま暫く無言で、都のほうを見続けた。
その間にも、闇は濃さを増し、空気はいっそう冷たくなる。
天狗であるがゆえに、彼らは人ほど寒さに弱くはない。それでも、冷え込む空気は彼らも感じ取ることができる。
「……白鴉よ」
「ん?」
抑えた声色で呼ばれ、白鴉は首を傾げつつ同胞を見やる。
「…………」
「なんじゃい。早く言わんかい、気になるではないか」
「…いや…、…」
口を開いては閉じ、玄鷺は数瞬、躊躇っている様子だった。しかし、黙っていても何にもならないと、彼は腹を決めた。
「……東に、あの男が幕府を建てた」
あの男。
誰と問わなくても、白鴉にはわかっていた。
「源頼朝…か……」
「鎌倉という地だそうだ。その勢力は絶大で、奴に与さずにいた武士も、都の軍も、震え上がって手を出せないと……」
言いながら、玄鷺は白鴉の様子をうかがった。
怒りの色を見せるだろうかと思ったが、白い天狗は予想に反し、静かに笑って、「そうか」と言っただけだった。
「怒らんのか」
思わずそう訊いてしまった玄鷺に、白鴉は屈託のない笑顔を向けて見せた。
その様子があまりにも普段通り過ぎて、玄鷺は眉をひそめてしまう。
「お前があれこれと世話を焼いていたあの子供は、兄である奴に殺されたも同然なのだぞ。
あの子供の犠牲の上に勢力を固めたというのに、奴はのうのうと生きているのだぞ。だのに、お前は何も思わんのか」
「そんな事を言われても、のぅ……。そりゃ、儂かてあの男は憎いぞ。首をはね落としてやりたいくらいには、思っておる。
しかし、しかしなぁ……」
白鴉は、ゆっくりと目を閉じた。
耳の奥に、蘇る声がある。
――白鴉、すまない……。
澄んだ心根を持った、才気あふれる少年だった。
敗戦武将の子であったが、まだ嬰児だったことで殺されることは免れ、鞍馬の寺に預けられて育った。
鞍馬山の天狗である白鴉は、少年に出会い、せがまれるまま武術や体術を叩き込んだ。
成長した少年は、兄が挙兵することを知ると、寺を去り兄のもとへ馳せ参じた。
戦場において少年は、軍略に才長け、無様な負け戦を演じたことはなかった。
圧倒的に不利な戦況でも、咄嗟の機転や果断に富んだ策略で、何度も覆してきた。
……その少年の鎧を初めて染めた血は、少年自身のものだった。
――兄上を、恨まないでくれ。
本来なら、戦など、人を殺めることなど、好まぬ性情であっただろうに。
兄が目指した、戦もなく民が笑って暮らせる理想郷を実現しようと、少年は刃を手にし、鎧で身を包み、戦場を駆け抜けた。
幾人もの命を奪おうとも、幾度血肉の海を踏み分けようとも、少年は兄のためにと、刀を振るい続けた。
最後は、その兄に疎まれ、切り捨てられ、自刃して果ててしまった。
それでも。
――私は、嬉しかったのだから。
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